安堂グループの歴史物語[第25話]
高森牛の歴史は明治初期に遡ります。その長い歴史のなか、山口県東部随一の牛肉生産を誇る安堂の名が登場するのは、意外にも戦後間もなく、昭和22年のことでした。
これは、現在の安堂グループに至る道のりを辿った歴史物語。そこには、激動の時代を生きた5つの世代、それぞれの苦難と歓喜の秘話がありました。
第25話
「牛のタタキを救え!」
安堂畜産の直営レストラン・高森亭のオープンから8年が過ぎ、客足は順調でした。「地元産の牛肉を気軽に腹いっぱい食べられる」、「あみ焼きが懐かしい味で、油も少なくて健康にいいね」等の評判が定着。特に「昔ながらの懐かしい味わい」は、おふくろの味を再現した光明にとって、嬉しい声でした。
そんななか、懐かしい味わいの一つ「牛のタタキ」が国の規制の対象になり、販売停止を余儀なくされるという事件が起きました。
死者5名
東日本大震災の混乱がまだ続いていた平成23年(2011)4月下旬、富山県・福井県で営業する焼肉チェーン店で食中毒が発生し、5名の死者を出す惨事が起きました。原因は焼肉店が調理したユッケによる腸管出血性大腸菌(O111やO157)でした。政府は直ぐに生食用牛肉の規格基準の設定に動きます。そして、食中毒から5ヶ月後、食品衛生法に基づく規格基準を定めました。それは、もし守らなければ行政処分と罰則の対象になるという厳しいものでした。
食中毒が発生した頃、光明と卓也はこの規制が、まさか自社の商品にも適用されるとは考えていませんでした。そもそも安堂畜産には生食用として提供する商品はありませんでした。しかも、HACCP(ハサップ)の認証を取得し、商品の菌数検査を定期的に実施し、社内の衛生管理には確固たる自信を持っていたのです。
ところが、政府が示した規格基準を初めて見たとき、二人はその目を疑いました。対象食品には、ユッケ・タルタルステーキ・牛刺しに続いて、牛タタキが明記されていたのです。
「はあ? なんでタタキが入るん?」と、卓也は思わず声を上げました。
タタキは生食なのか?
牛タタキは加熱処理をして作られます。ユッケや牛刺し等とは別物だと卓也は考えていました。それがなぜ、ユッケと同列に規格基準の対象になっているのか。
卓也はすぐに保健所に問い合わせましたが、地元の保健所ではこれに答えることはできません。この基準を定めた厚労省に卓也の質問は投げかけられました。
卓也の考えでは、
「タタキがもし、生食というなら、ステーキはどうなのか。表面だけ焼いたブルーやブルーレアのステーキは、タタキよりも生に近い。なのにステーキは規格基準の対象に入っていない。だから、タタキがユッケと同じ生食になるのはおかしいのではないか」。
確かに、ステーキ店では焼き方をブルーで頼むと、ほんの1mmほど表面を焼いただけで中は冷たい生のままです。
しばらく時間が経った後、厚労省からの回答が伝えられました。
「ステーキは調理された店内で食べるものですが、牛タタキは調理されたその場で食べるのではありません。そもそも販売形態が違う両者だから、比較の対象にはならない」。
そして全国に向けて、「生食用食肉(牛肉)の規格基準設定に関するQ&A」という文章が厚労省から発表されました。
「ステーキについては、これまでのところ腸管出血性大腸菌及びサルモネラ属菌を原因とする食中毒事例が報告されていないことから、本規格基準の対象にはなりません。」
納得のいかない卓也でしたが、既に決まってしまったからには、これ以上、執拗に意見しても時間の無駄です。タタキの製造販売を休止してから既に3ヶ月以上が経ち、直営店には長年馴染んだ商品が消えたことへの不満が寄せられていました。早期再開を目指して卓也は、規格基準を満たす製造方法に取り組むことにしました。しかし、ここでまた、卓也は大きな問題に直面しました。
祖父秘伝のレシピ
牛タタキの製法は業者によって様々です。互いにその製法について教え合うこともない、いわば秘伝。安堂畜産の場合には、卓也の祖父・親之が考案しています。
それは、高温の油で揚げる手法です。予め肉片(肉質が均等で柔らかい赤身のモモ肉)に塩、胡椒、ガーリックを施したものを、高温の油に一気に入れます。その時の油の反応は、もし、これを家庭でやれば火事になってしまうほどの激しさ。しかしこれにより、ガーリックと胡椒が適度に焦げて、あの食欲をそそる香りが立ち込め、カリッとした表面に仕上がります。「安堂のタタキは香ばしくて、味が染みて美味い」とファンが多いのは、この製法のお陰です。
さて、生食用食肉として規格基準の対象となったからには、その基準をクリアーしなければなりません。その基準の一つは、「腸内細菌科菌群が陰性でなければならない」というもの。そして、その基準を満たす製造方法として、ある方法が提示されたのですが、その製法に卓也は苦しめられることになりました。
厚労省が示した製造方法とは、「気密性のある清潔で衛生的な容器包装に入れ、密封し、肉塊の表面から深さ1cm以上の部分までを60℃で2分間以上加熱する方法」。
実際にこの処理を行ってみると、密封状態での湯煎の結果、肉の表面はふやけ、異臭を放ち、とても従来のカリッとしたタタキには仕上がらず、商品には程遠いものでした。
「今までのやり方でも、1cm以上火が通って、菌数の基準もクリアできている。むしろ、うちはもっと高温で加工するのだから、より安全じゃないか」。
卓也は再び保健所を通じて、厚労省に問い合わせてもらいました。肉塊に温度計を差し込んで実験して得たデータも添えると、「これは認めてくれるはずだ」という自信がみなぎりました。
▲従来の製法で検証実験をしたときのデータ
怒号の電話
厚労省からの回答を卓也は地元の保健所の担当者から聞きました。そして、自信満々だった卓也は一気に消沈しました。
「この規格基準を定めるとき、専門家が実験して認めたのは、湯煎による方法だったようです。だから、これ以外の方法は認められないということでした」。
これを聞いて、卓也には怒りにも似た感情がこみ上げてきました。
「誰がどう考えても、高温の油で揚げて同じ効果が得られるなら、それでもいいはずだ」。
同じ主張を繰り返す卓也に対して、保健所の担当者はどうすることもできません。そして、とうとう卓也の声は大きくなりました。
「もう一回、今度は直接会って、ちゃんと話をしてきてくれないか!」と卓也。
「それはちょっと…」。担当者はたじたじです。
「わかった、それじゃあ、一緒に行こうじゃないか!」と卓也。
「えっ?!」。担当者の困った顔が目に浮かびました。
保健所の担当者と喧嘩をしても仕方のないことです。親身になって厚労省と幾度となく掛け合ってくれている担当者です。冷静になった卓也は、もう一度、厚労省へ説明してもらえるようにお願いをしました。
後日、保健所の担当者から連絡があり、厚労省からの返答が伝えられました。
「安堂さんがそこまで、その製造方法にこだわるなら、そのデータを持って、直に専門家の先生のところに行って、OKをもらってくださいとのことです。前にも説明した通り、お湯で実験した内容で専門家の先生は基準を認めています。だから、安堂さんのやり方を許可するためには、その専門家の同意がどうしてもいるということでした」。
聞けば専門家は5~6人いるといいます。もっと詳しい資料をそろえて、それぞれの研究室を訪ね歩くなど、手間も時間もかかることです。牛タタキの販売を停止してからすでに半年以上が過ぎ、よく売れるお盆の時期も仕方なくやり過ごしていました。
なんとしても、年末までには認可を受けて、牛タタキを店頭に並べたい。たくさんの人たちがあの味を欲している。卓也には、そんな義務感に似た感情と共に、それまでの厚労省とのやり取りを思うと、「負けてたまるか」という感情がふつふつと湧いてきたのです。
「よし、こうなったら、役所に文句を言われないやり方で、安堂の味を再現してみせる」。
電話を切った後、卓也には一つのアイデアが浮かんでいました。