安堂グループの歴史物語[第9話]

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 高森牛の歴史は明治初期に遡ります。その長い歴史のなか、山口県東部随一の牛肉生産を誇る安堂の名が登場するのは、意外にも戦後間もなく、昭和22年のことでした。
これは、現在の安堂グループに至る道のりを辿った歴史物語。そこには、激動の時代を生きた5つの世代、それぞれの苦難と歓喜の秘話がありました。

第9話

大仕事で得た意外なもの

 わずか1週間で3,000頭の牛を売りさばく。そんな大仕事を成し遂げた親之は、得た資金を元手に新たな牧場を作ることにしました。時代の流れを読み、堅実に事業を育む。そんな親之の方針が、安堂商店のその後の躍進へとつながろうとしていました。

牧場をつくろう!

 急激に広がりつつあるスーパーとの取引。その旺盛な需要に応えるには、家に隣接する牛舎での肥育や農家への牛の肥育預託制度では到底、間に合わなくなっていました。預託先農家の高齢化や後継者不足も深刻さを増すばかりです。加えて、各地の市場で肉牛を競り落とそうにも、牛不足のために相場は高くなる一方でした。
 牧場の敷地には、安堂家の裏山を当てることにしました。そこは6年前、ドライブイン・天野屋利兵衛を建設するために大量の木材を切り出した場所です。
 土地への入り口付近を横切る小川を土管に換えて埋め込み、車道を造りました。そして知り合いを頼って大型ブルドーザーを導入すると、大規模な造成工事を敢行。工事は順調に進んでいるように見えました。
 ところが、仕上がった土地には傾斜があり、奥の方はまるで段々畑のように段差ができていました。測量もなしに急いで造成したためでした。

安堂グループの歴史物語第9話 小川を土管に換えて埋め込んで牧場への進入路を確保 写真
▲小川を土管に換えて埋め込んで牧場への進入路を確保

 現在の高森肉牛ファーム(安堂グループの農業生産法人)には、今もその時に作られた牛舎が一部、現役で活躍しています。牧場入口から連なる古い牛舎がそれです。
 敷地の奥、中央付近(5号~9号牛舎)に行くと土地は登り坂になり段々畑のように牛舎が並んでいます。そこが測量なしに造成した名残です。
 実は後になって分かったことですが、この段差が意外な効用を発揮しました。餌の供給や糞尿の廃棄をするときの作業が、上から下へ卸せば済むため随分と楽にできるようになったのです。まさしく怪我の功名でした。
 新たな牧場に1棟ずつ牛舎を建て増しして、親之は8棟、400頭の肥育体制を徐々に整えていきました。

安堂グループの歴史物語第9話 親之が整備した牧場(昭和50年頃) 写真
▲親之が整備した牧場(昭和50年頃)。右に向かって傾斜になっている。

市場での戸惑い

 牛舎が増えれば、そこで肥育する素牛が要ります。同時に、日々の納めのために、肉牛も確保しなければなりません。親之は以前にも増して各地の市場へ足繁く通うようになりました。そして、今までとは明らかに違う扱われ方に、戸惑うことになります。
 市場の競りでは経験と実績、そして顔の広さが物を言います。例えば、宮崎都城家畜市場では当時、手のサインで買値を伝える「手競り」が行われていました。まだ、公正取引の規則が整っていなかったころのことです。競り太夫(競りを仕切る役割)は、実績のある常連のサインには敏感に反応しますが、顔を知られていない新参者のサインは無視することもしばしばでした。良い牛を安値で買いたいが、そんな良い取引は常連のもの、というのが当時の市場の常識。親之もさんざん痛い目に遭っていました。
 ところが、親之への対応が一変したのです。
 「あれがあの3,000頭をさばいた安堂さんよ」とささやく声が聞こえます。親之が手を挙げると、今まで見向きもしなかった競り太夫も他の競り人も敏感に反応します。そして、競りは有利に展開するようになったのです。

 あの大仕事で得たものは、牧場を整備する資金だけではありませんでした。お金では買えない貴重なものが親之には備わりました。業界での高い評価がやがて信頼となり、市場での競りはもちろん、新しい取引の話や、一部しか知り得ない貴重な情報が親之に集まるようになったのでした。

長男・光明の使命

 さて、親之が牧場を整備し拡大し始めた頃、長男・光明は獣医になるべく東京で学生生活を送っていました。
 肉牛の肥育のためなら、獣医にならずとも畜産を学べば十分です。しかし、獣医を目指したのにはある理由がありました。それは、牛の妊娠鑑定の技術を安堂商店が必要としたからです。
 乳牛は妊娠しなければ搾乳することはできません。酪農家は確実に妊娠した乳牛を求めています。酪農産業が大規模産地へ集約されつつあったとはいえ、地域には付き合いの長い酪農家がいくつもありました。それらを担当していた繁美がレストラン経営に専念したこともあって、乳業を斡旋する人材の育成が課題になっていました。その人材は、妊娠鑑定もできればなお助かる。光明はそんな期待を受けて、獣医への道を歩んだのです。
 昭和50年(1975)3月、光明は麻布獣医科大学(現・麻布大学獣医学部)を卒業し、獣医資格を取得。その後、妊娠鑑定の技術を数か月かけて見習いで学ぶと、安堂商店に戻ってきました。そしてそこで待ち構えていたのは、妊娠鑑定とは違う仕事だったのです。

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▲麻布獣医科大学4年生の光明(1列目中央)

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