安堂グループの歴史物語[第10話]
高森牛の歴史は明治初期に遡ります。その長い歴史のなか、山口県東部随一の牛肉生産を誇る安堂の名が登場するのは、意外にも戦後間もなく、昭和22年のことでした。
これは、現在の安堂グループに至る道のりを辿った歴史物語。そこには、激動の時代を生きた5つの世代、それぞれの苦難と歓喜の秘話がありました。
第10話
光明の試練
晴て獣医の資格を得た安堂光明(現会長)は昭和50年(1975)、実家へ戻ってきました。獣医としての専門知識を肉牛の肥育に活かすことができる。わざわざ住み込みで習得した妊娠鑑定の技術も、乳牛の取引に役立てることができる。23歳の光明は意気揚々としていました。ところが…
意外な課題
光明にまず課せられたのは、獣医の知識も妊娠鑑定の技術も役に立たない市場での牛の仕入れでした。
父・親之によって牛舎8棟、400頭を肥育する牧場が整いつつあったその頃、肥育する牛の確保が喫緊の課題でした。旺盛な牛肉への需要とスーパーの台頭によって、商品への引き合いは沢山ありましたが、肝心の肉牛が不足している状況は続いていました。
さらに、そんな事情とは別に、若い光明を市場へ行かせなければならない理由が、親之にはあったのです。
「若いときでないと、ダメじゃ。競りで失敗してもじきに慣れるが、歳をとってからじゃあ、恐れて買えんようになる」。
一頭の牛を幾らで買うのか、買わないのか。他者との駆け引きのなか、瞬時に決断する。そこには牛についての知識はもちろん、牛の体重や健康状態を姿だけで察知する能力が問われます。そして何よりも、大金を動かす度胸や思い切りが欠かせません。そんな競りの勘や度胸は、若い時にしか養えないというのが、20代から各地の市場を渡り歩いてきた親之の持論でした。
初めての競り
光明は宮崎都城家畜市場に赴きました。親之による3,000頭の売りさばきにより、安堂商店の名は市場で知らない者はいません。光明は戸惑いのなかにも、平静さを装って競り場に立ちました。
この市場では、手で値段を競り太夫(せりだゆう・競りを仕切る役割)に伝える「手競り(てぜり)」が行われていました。月に1,000頭を超える牛が売買され、体重の表示はないまま、次から次へと牛が競り落とされていきます。
光明は事前に目を付けていた牛が出てくると、すかさず手を挙げました。指で言い値をしっかり伝え、競り太夫もそれを確かに見てくれた。そう思った矢先、競り太夫は他の競り人を指し、値が決まってしまいました。その後もしばしば光明のサインは競り太夫に無視されました。安堂商店の名は知られていても、光明の顔は誰も知らなかったからです。ようやく競り落とせたと思ったら、牛の価値とはかけ離れた高値で買わされる始末でした。
まだ公正取引のルールが定まっていなかった昭和50年代、競りはそれまでの実績によって作られた「顔」が幅を利かせていました。競り太夫は、「この牛はあの人がこのくらいの値で落とすだろう」という予測や、時には贔屓する意図を持って競りに臨んでいます。若き光明は、一から競りの経験を積んで、その「顔」を獲得する必要に迫られました。
しかも、どこの市場も「手競り」とは限りません。広島三次家畜市場では、競り太夫と相対(あいたい。一対一)で上着の袖の下で値を伝える方法によりました。南風泊(はえどまり・下関)市場でのフグの競りと同じやり方です。
山口小郡家畜市場では、口銭馬喰(こうせんばくろう)という悪しき伝統が残っていました。早朝、仲介者が牛の売り手と交渉し予め価格を決めておき、仲介者の儲けを載せて買い手に売る方法。そこでは競りの機能は働かず、光明は親族を頼ってやっと牛を買い取ることができました。
様々な競りを経験し失敗を重ねるなかで、光明には牛の価値を計る確かな目が備わりました。姿を見て牛の体重を言い当て、歯を見て歳を予測する。各市場での「顔」も、自ずと認知されるようになりました。
安堂の家訓
昭和60年代に入ると、競りはボタン式に変わりました。新参者だからと競り太夫に無視されることはなくなりました。また、血統書や体重等、牛に関する正確な情報が公正に提供されるようにもなりました。しかし、このような国の政策による公正取引の確立が進んだ現在でもなお、競りにはある種の特別な能力が問われることに変わりはありません。親之が「若いときでないと、ダメじゃ」と言った「競りの勘と度胸」は今でも、競りに欠かせない素養です。
光明の長男で現在の社長・卓也もまた、20代から競りを経験しています。若い時期から競りを経験することは、安堂家の家訓になりました。
新たなる試練
親之と光明は手分けをして各地の市場で牛を仕入れると、自社の牧場での肥育が本格化しました。そして、今まで牛舎だった自宅横の建物を改装して大型冷蔵庫を装備するなどにより、牛肉のカットセンターが生まれました。こうして、より多くの商品を小売店へ届ける仕組みが動き始めた頃、新たな課題が浮上しました。
▲自宅横の牛舎を改装して作った牛肉カットセンター
おりしも牛肉販売の主役はスーパー等の量販店に代わり、取引量はかつてない規模に増えていました。そして、スーパーからの要求は徐々にエスカレートしていきます。人気の高い牛肉部位に偏った発注、より長い期間鮮度を保つこと…。その圧力は、勢い付いた日本経済を背景に、ますます高まる牛肉への消費ニーズに推されて強まる一方でした。光明の試練はまだ、始まったばかりだったのです。