安堂グループの歴史物語[第21話]
高森牛の歴史は明治初期に遡ります。その長い歴史のなか、山口県東部随一の牛肉生産を誇る安堂の名が登場するのは、意外にも戦後間もなく、昭和22年のことでした。
これは、現在の安堂グループに至る道のりを辿った歴史物語。そこには、激動の時代を生きた5つの世代、それぞれの苦難と歓喜の秘話がありました。
第21話
「HACCP/ハサップへの挑戦」
92年ぶりの口蹄疫、その翌年にはBSEの発生と続き、消費者の「食の安全」への関心は、高まっていました。実は、口蹄疫が発生する4年前の平成8年(1996)、岡山県内の学校給食から腸管出血性大腸菌O157による食中毒が、そもそもの発端でした。それ以降、取引先から食の安全への取り組みが具体的に問われるようになり、その要求は事件が重なる都度、厳しさを増しました。
光明の決断
安堂畜産では、山口中央生協(現・コープやまぐち)からの要請に応える形で、加工場のウインドウレス化(第17話「虫と新社屋の関係性」)を実現するなど、早くから対策を講じてきました。しかし、いくら最新の設備を整えた新工場があっても、取引に二の足を踏む流通業者は少なくありませんでした。
「おたくの加工場に文句はありません。ただ… と畜場が旧式じゃあねぇ」。
周東町(現・岩国市)のと畜場・周東食肉センターは、昭和53年(1978)に竣工した施設です。BSEの発生時、24年が経過していました。建設時は最新の設備でしたが、流通業者の食の安全についての要求は、当時とは比べ物にならないほど厳しくなっていました。
例えば、新しいと畜場では、と畜後、速やかにレールに肉牛を吊り下げると、床に置かれることなく処理されます。しかし、旧式の周東では、吊り上げることなく処理をしていました。作業中に、牛の表皮の汚れが肉に付着する危険をはらんでいたのです。
「よし! こうなったら、業界トップレベルの安全基準を証明してやろう」。
安堂光明は、ISO9001-HACCP(通称、ハサップ)の認証取得を決意したのでした。
ハサップとは、NASAが宇宙飛行士の食事を管理するために開発した食品の安全に関する基準。その審査は食品加工の全ての工程に及び、加工された食品には菌数制限が課されます。しかも、その検査は毎年行われ、認証を更新し続ける必要があります。商品の安全性を証明するにはこれ以上ないお墨付きです。
平成16年(2004)、光明は実績ある専門コンサルタント(JQA審査員)に依頼し、これの認証取得を急ぎました。
ところが、1年経過してもなかなか認証の審査を受けるところに至りません。日常の業務に忙しい光明は、どうしてもコンサルタント任せになってしまいます。本腰を入れてこれに取り掛かるため、光明は東京のスーパーマーケットに勤務する息子・卓也を呼び戻すことにしました。20代の若い頃から競りを経験させて育てるという安堂の家訓(第10話「光明の試練」)も意識してのことでした。
卓也の生い立ち
安堂卓也は昭和54年(1979)、光明の長男として生まれました。幼い頃から、10日置きに父は都城の家畜市場で牛を買うために不在になることを、当たり前のことのように感じて育ちました。まるでスーパーに買物に行っているのと同じ感覚。家業を継ぐことに何の疑問も違和感もなかったといいます。
地元の高校を卒業すると、日本大学商学部へ進学、商売を意識しての選択ですが、卓也にとってはむしろ、全国から集まってくる学生たちとの出会いの方に関心がありました。「実はもともと、人見知りなんです」と、意外なことを口にする卓也は、東京での多様な人たちとの交流に揉まれ、その社交性を身に着けたのでした。
大学を卒業すると、東京のスーパーマーケット・サミット株式会社へ就職。当然のように精肉部への配属を希望すると、同期約150人のうち、精肉を希望したのは極々わずか。「寒いし、汚れるし」と、精肉と鮮魚は避けられる職場でした。
実は、卓也には別に、興味を持っている業界がありました。それは、当時から勢いづいていた携帯電話の業界です。自分でパソコンを組み立てるなど、卓也はコンピューターに興味を持っていたのです。結果、流通業はITを駆使する時代になり、現在、その才能は大いに生かされています。
ちなみに、卓也という名を付けたのは父の光明です。尊敬する経営者・岡田卓也からその名を拝借しました。岡田卓也は実家の呉服屋を総合スーパーへ発展させ、現在のイオングループの基礎を作り上げた人物です。卓也は、スーパーへの就職を運命付けけられていたのかもしれません。
スーパーの男
さて、父・光明から「そろそろ戻って来ないか」と告げられたとき、卓也はある店舗の精肉部で仕入れを担当していました。
食品が足らなくなるのが怖くて、少しずつ多めに発注し、在庫が冷蔵庫いっぱいになってしまったり、逆に、発注ミスで売り出し用のウインナーが足らず、同期入社がいる他店から在庫を集め、タクシーに満載して運んで間に合わせたとか。失敗談には事欠きません。
その一方で、消費傾向を考えながらの売場づくりとそのための仕入れについて、貴重な経験を積みました。実は、サミットは映画「スーパーの女」(伊丹十三監督)のモデルです。消費者の立場で店の不正を正し、食の安全を追求して顧客の信頼を勝ち得ていくという物語は、サミットの営業方針に着想を得たもの。卓也は当時、最先端の食の安全や労務管理を現場で学んでいました。
平成17年(2005)3月、光明からの問いかけに応じて、卓也は安堂畜産へ入社しました。役職は専務取締役。取り掛かってすでに1年が過ぎていたハサップの認証を速やかに取得することが、最初の仕事でした。
「専門のコンサルタントが、もう1年も動いてくれているから、そんなに大変じゃあないよ。集中してやればできる」と光明。
「それに、会社全体を知るのにもちょうどいい」と言って卓也の肩をポンと叩きました。
話がちがう?!
ほどなくしてコンサルタントが来社。コンサルタントが作ってきたマニュアルを、実際の加工現場で検証することになりました。検証の結果を踏まえて、いくつかの調整をすれば、数か月後にはハサップの審査が受けられる手はずです。
現場での運用検査が始まりました。経験豊富なコンサルタントです。落ち着いた様子で、マニュアルを開きます。卓也も現場のチーフも同じマニュアルを開きました。ところが、マニュアルに書いてある工程は現場の作業とは全く違うものでした。
「あのー、まず最初に真空パックから肉を出して、ドリップを取るけど、それはないんですねぇ。あれ? ここに書いてある工程なんて、もともとありませんけどね」。
現場チーフの指摘はどんどん出てきて、とうとう「これはうちのマニュアルじゃあないんじゃないのか?」と言い出す始末。コンサルタントは流れる汗をぬぐうばかり。卓也はその様子を見ていて愕然としました。
「話がちがうじゃないか」。
孤軍奮闘
コンサルタントが作成してきたマニュアルは、一般的な食品会社をモデルにした汎用的なものでした。どの食品会社にも大枠では当てはまるが、現場ではとても使い物にならない。しかも、安堂畜産は牧場から小売りまで一貫した事業を展開しています。さらに、と畜から商品パックまで特殊な工程が連続します。現場を知らないコンサルタントにとって安堂畜産の工程は、とても把握できないものでした。
父に文句を言っても始まりません。卓也は一から現場の実態を調べ、マニュアルを作り直す作業に入りました。
安堂畜産に入れば、子どもの頃から親しんだ家業が待っていると思っていました。市場で牛を競り落として飼育して…。それがどうでしょう。最高峰の食品安全基準をクリアーするためのマニュアル作りをしています。現場を知らないコンサルタントは当てにならず、作業は孤軍奮闘。唯一、現場の社員たちの協力が救いでした。
思い出してみれば、卓也はスーパー・サミットで希望していた精肉部門ばかりにいたわけではありませんでした。配属は精肉でも、一旦、店舗に出れば人員配置は店の裁量です。6台並ぶレジには、毎日、長蛇の列。精肉部門ではまだ使いものにならないからと、1年生の卓也は毎日のようにレジ係をさせられていました。それが1ヶ月、2ヶ月続く…。
「もう、やってらんねぇ」。
卓也はある日の昼休み、啖呵を切って店を出て行ってしまいました。社員証も保険証も何もかもロッカーに置いたままでした。
その翌日のこと、父から電話がありました。
「おい、お前の会社から、うちに電話がかかったぞ。仕事ちゅうのはそういうもんじゃ。とにかく店に出ろ!」。
精肉部門に戻すからという店長の約束を取り付けて、卓也は職場に戻りました。しかし、待っていたのはやはりレジ係。店の事情も考えながら、歯を食いしばって数か月を耐えたのでした。そのおかげで、卓也には「レジ打ちは今でも誰にも負けない」という特技があります。
日中は現場に通い、夜には現場で得た情報を基にマニュアルを手直しする。そんな毎日が永遠に続くように思われました。そして、ある難問にぶち当たりました。
それは以前から、ある大手流通業者にも指摘されていた課題です。周東町のと畜場のなかに、どうしても基準をクリアーできない工程があるのです。それは避けては通れない難問。卓也は、その課題に真っ向から挑むことになりました。