安堂グループの歴史物語[第15話]
高森牛の歴史は明治初期に遡ります。その長い歴史のなか、山口県東部随一の牛肉生産を誇る安堂の名が登場するのは、意外にも戦後間もなく、昭和22年のことでした。
これは、現在の安堂グループに至る道のりを辿った歴史物語。そこには、激動の時代を生きた5つの世代、それぞれの苦難と歓喜の秘話がありました。
第15話
ブランドへの第一歩
「松阪牛とやらを、食べに行こうやぁ!」そんな、掛け声で決まった旅行当日、新幹線には玖西食肉研究会の一行が乗っていました。ところが、この旅行を手配した安堂光明の姿はありませんでした。研究会の会長を務める中村も不在でした。
「ああ、あの二人なら、そろって父親参観じゃ。なんでも、今まで一度も参観日に行ったことがないらしいよ」。
「それなら、しょうがないか」と妙に納得した一行は、早速、ビュッフェ車両に移動すると、ビールで喉を潤したのでした。新幹線のビュッフェ車がまだ人気を博していた昭和62年(1987)のことでした。
牛肉のプロの舌
研究会の一行が訪ねたのは、松阪市(三重県)の「和田金」。明治11年創業の老舗料理店です。鋤焼き(すきやき)が人気を博し、昭和39年(1964)からは、自前の牧場で肉牛を育てるようになっていました。すき焼きを楽しむだけでなく、牛を見ることができる。それが、手配した光明の狙いでした。そしてもう一つ光明と中村には、ある考えがありました。
到着するやいなや一行は、さっそくその味に舌鼓を打ちました。
「おお、これが松阪牛かぁ…。うまいのぉ。うちの肉とおんなじくらいじゃ」。
すでに新幹線でいい気分になっていた一行は、会長が不在なのをいいことに、いつになく饒舌です。
「おう、それじゃったら、お前の肉にも松阪牛のシールを貼って売ってみたらどうじゃ」。
「そりゃあええ案じゃ、ははは…」。
そんな賑やかな食事が進むなかにあっても、そこは牛肉のプロです。目と舌が、美しいサシ(霜降り)や、柔らかな食感、甘味のある脂の味わいを見逃すことはありませんでした。
「自分たちで牛を育てるだけのことはある」。
牧場を見学し、牛を見ればなおのこと、その印象は一行の脳裏に深く刻まれました。
ブランドの立役者
松阪牛の高い評価は、一朝一夕で築かれたものではありません。その歴史は江戸時代にまでさかのぼります。松阪では、但馬国(たじまこく、現・兵庫県)で生まれた雌牛を、鈴鹿山麓の豊かな自然のなかで丁寧に肥育し、農耕に利用していました。明治期になると、これらの肉牛を連れ、徒歩で東京へ売りに行く「牛追い道中」が行われ、松阪の牛が広く知られるようになります。
その後、「和田金」ら料理店や精肉店、そして家畜商、農家らの努力により、良質な肉牛を育てる技術が根付き、現在のゆるぎない「松阪牛」ブランドが築かれてきました。
これには重要な役割を果たしてきた組織があります。地域の食肉業者らが昭和33年(1958)に設立した松阪肉牛協会です。協会は、松阪牛とはどのような肉牛なのかを定義し、その品質を守るための規約を定めると、これを厳格に守ってきました。
帰路に就いた一行からは、誰ともなく、「わしらの肉にも名前を付けよう」という声が上がっていました。
「やっぱり、高森牛じゃろうのぉ」と誰かが言えば、「わしもそう思うちょった」という声が上がりました。
旅の様子を聞いた光明も中村も、意を得たりと、膝を叩きました。二人ともこのことを、ずっと考えていました。ますます激しくなる産地間競争に加えて、処理の少ないと畜場の廃止など、産地の淘汰も始まっていました。
この窮地を乗り越えるためには、産地の同業者が結束して歩調を合わせなければなりません。「高森牛」という銘柄は、その旗印になるものでした。
光明はその考えを、広島県のある同業者に打ち明けたことがあります。帰ってきた言葉は、冷ややかなものでした。
「そんなことは、無駄じゃ。地域の同業者がまとまるわけがない」。
シール事件
研究会では早速、銘柄・高森牛についての定義が話し合われました。高森牛と呼ぶことのできる生産地の特定、品質の基準などです。
そして、高森牛であることを主張する統一のシールを作りました。
▲研究会が作った「高森牛」の統一シール
研究会のメンバーは、「肉のふるさと・高森牛」を店頭にあしらい、規定に合う商品には、誇らしくシールを貼りました。
明治の頃から、「高森の肉は安くて、うまい!」と言われてきた牛肉です。すでに根付いているそのイメージと相まって、高森牛のシールを貼った商品は売上を伸ばしました。他より少し高くても、身近な存在になった銘柄牛を消費者は歓迎しました。研究会のメンバーは、口々にその成果を話題にし、互いに喜びました。
そんななか、事件は起きました。
「おい、こんなシールが貼られちょったぞ!」。
研究会のある会員が手にしていたのは、「高森牛」と書かれたシール。研究会が作ったものとは、明らかに違う別物でした。
▲研究会以外が作った「高森牛」のシール
「高森牛」のシールは、単に商品名を表すものではありません。その商品が高森牛の定義や基準に合致した本物であることを表す証です。このシールを勝手に作って貼られてしまっては、品質を守ることはできません。これは産地偽装にもつながる重大な問題です。
調べてみると、紛らわしいシールは、9件ありました。松阪牛を見学に行ったとき、冗談で話していた産地偽装のやり口に、まさか自分たちが遭うとは…。
それからというもの、研究会の会員は、そのシールを貼った業者の一つひとつを訪ねて、シールの取り下げを要請して歩きました。
時は過ぎて14年後の平成14年(2002)、国が主導して、全国の銘柄が登録されることになりました。その機会に、研究会は『高森牛取扱要項』を取り決め、さらに厳密で罰則も盛り込んだ規約を発行しました。そして、晴れて「高森牛」は登録銘柄として、その名を全国に知られることになりました。
国に登録された銘柄229の内、そのほとんどは県等の自治体が主体となったものでした。そのなかで、地域の事業者が主体になって生まれた銘柄は、高森牛だけでした。
広島の同業者が光明に語った「まとまるわけがない」という言葉は、見事に外れました。玖西食肉研究会の結束力の強さを内外に示した出来事でもあったのです。
▲高森牛取扱要項
次の一手
まがい物のシールを一つ一つ消していくことに奔走しながら、研究会のメンバーは、高森牛ブランドに磨きをかけようと、ある計画を話し合っていました。
財源は、柳井市の火力発電所に関わる補助金(電源立地交付金)です。柳井市近隣の町村に交付されることになっていました。これを財源にして、隣の玖珂町では、戦国時代の合戦に因んだ祭りの企画が持ち上がっていました。
「補助金を使って、高森牛をもっとアピールできたら…」。光明もまた、考えを巡らせていました。