安堂グループの歴史物語[第19話]
高森牛の歴史は明治初期に遡ります。その長い歴史のなか、山口県東部随一の牛肉生産を誇る安堂の名が登場するのは、意外にも戦後間もなく、昭和22年のことでした。
これは、現在の安堂グループに至る道のりを辿った歴史物語。そこには、激動の時代を生きた5つの世代、それぞれの苦難と歓喜の秘話がありました。
第19話
「地産地消に応えたい」
平成5年(1993)11月に安堂畜産の新社屋が完成した後、山口中央生協(現・コープやまぐち)から新たな要求が届きました。
「山口県で肥育された県産牛に限定して供給して欲しい」。
加工場の新設により生協からの衛生面での要求に応えることができて、ほっとしていた矢先のこと、安堂光明はそのタイミングに戸惑いながらも、「来るべきものが来たな」と感じていました。
失いたくない取引
平成に入った頃から安価な中国産野菜が市場に出回り、消費者の食の安心・安全への関心はさらに高まりをみせていました。「地産地消」という言葉を耳にしない日はないほどです。
「さて、どうすればよいものか」と光明は頭を抱えました。自前の安堂牧場は県内でも有数の500頭規模でした。しかし、それにより出荷できる頭数は月に20頭がせいぜいで、とても需要を賄えません。不足分を県内の他の畜産家から集めるにしてもとても足らず、県外に頼らざるを得ないのが実情です。そこで、自社牧場の規模を拡大することを考えてはみるものの、本社加工場を新設したばかりで、その資金の当てはありませんでした。
「体制を整えるのに時間がかかりそうだから、少し待ってほしい」と、光明は時間の猶予を訴える他ありませんでした。
一方の生協も、数年前から全国的に組合員の減少が止まらず、流通業者としての生き残りがかかる過渡期にありました。さらなる「食の安心・安全」への取り組みに、時間的な余裕はありませんでした。
当時、安堂畜産は既にたくさんの取引先を持ち、直営店の経営にも成功していましたが、生協との取引は他とは違う特別な意味を持っていました。消費者である組合員によって運営される流通業だからこそ、そのニーズは時代の先端を走っていました。生協との取引は安堂畜産にとって、業界のトップランナーとしての誇りと共に、他の取引を得るための一つの宣伝材料になっていたのです。
「取引は失いたくないが、牧場の規模拡大は大きなリスクになる」。光明の試算では1,000頭、当時の倍の規模を必要としていました。
4年の歳月
翌平成6年(1994)の秋、そんな光明のところへあるニュースが飛び込んできました。それは、牛肉輸入の自由化をもたらしたウルグアイランド合意を受けて、畜産業者を保護するための支援策(肉用牛等地域畜産再編対策事業)が決定されたと言うのです。これの対象に認められれば、牧場の規模拡大に係る投資の半額以上が補助されるというもの。支援策の運用が始まると光明は、周東町(現・岩国市)の農林課と連絡を取り、申請に向けて動き始めました。しかし、億を超える補助金にかかる申請です。手続きは思っていた以上に難航しました。
補助金の対象は農業生産法人に限られます。しかも、法律に基づく農業経営改善計画を作り、適正であることを市町村から承認された認定農業者であることが求められました。
光明は平成9年(1997)4月に有限会社高森肉牛ファーム(安堂グループ)を設立。そして翌平成10年(1998)12月に周東町の承認を得て、認定農業者に漕ぎつけました。しかし、その時すでに生協からの県産牛の要求からは、4年が過ぎていました。
その山口中央生協は「生活協同組合コープやまぐち」に名称を改め、経営人事も変わりました。そして、牛肉については県内からの調達は難しいため、県外の産直品を組合員へ提供するようになっていました。「せめて産地直送を」という安心を求めた結果です。そう、安堂畜産の牧場規模拡大への取り組みは結局、間に合わなかったのです。
正真正銘の高森牛
しかし、光明はそのまま牧場規模拡大への進路を変えませんでした。「地産地消」「食の安心・安全」という消費ニーズは今後ますます強まることは明白でした。そしてもう一つ、どうしても実現しておきたい課題を抱えていました。
「高森で育った正真正銘の高森牛を育てないと、時代に乗り遅れてしまう」。
それは、当たり前のことのようで、実はとても難しいことでした。
地域ブランド「高森牛」は、地域畜産業者の若手後継者らの集まり玖西食肉研究会によって立ち上がりました(第15話)。国内の産地間競争から生き残ることを目的に、肉牛の品質基準を設け、周東町営食肉センターでと畜した肉牛を高森牛の条件にしています。その取り組みは見事に成功し、高森牛ブランドは県内外に広く認知されるようになっていました。
ところが、他の地域で肥育された肉牛であっても、その条件を満たせば高森牛になります。500頭規模の自社牧場を持っている安堂畜産でさえ需要に応えられず、他産地で肥育された肉牛を周東町でと畜することにより、高森牛として販売することが常態化していました。それは地域の同業者にとって、偽りではないが、どこか心に引っかかることでした。
「このままでは、より厳しくなる消費者の目に晒されて、せっかく築き上げた地域ブランドの価値が崩れてしまいかねない」。
そんな危惧を、光明は抱いていたのです。
1,000頭規模の実現
平成12年春、高森肉牛ファーム肥育センター(旧・安堂牧場及びその他牧場の共同施設)の増築工事が竣工しました。そこには4棟の肥育舎と3つの堆肥舎が新たに加わりました。特に堆肥舎には、自動的に短時間で糞尿を堆肥化する装置(連続発酵乾燥堆肥化処理装置)を備え、新旧10棟の肥育舎からの糞尿の堆肥化を一手に引き受け、環境への配慮はもちろん、地域農家への堆肥供給にも貢献するようになりました。500頭だった肥育規模は一気に1,000頭に倍増しています。
その総工費は約2億8千万円。そのうちの半額が国からの補助金で賄われ、残りの半額は認定農業者が利用できる低利融資により調達しました。つまり、元手はゼロです。手続きに長い時間を要して、周東町をはじめとするたくさんの人たちの協力を得て完成した肥育センターを前にして、光明は感謝の念に堪えませんでした。
それから3年後、老朽化した高森郵便局の建物に安堂畜産直営の飲食店・高森亭をオープンさせたのは、地域への感謝を形に表したもの。当時、高森牛を昼間に食べることのできる飲食店は地域になく、とても喜ばれました。
ショックなニュース
さて、肥育舎が建てばすなわち、早く牛を入れたいというのが畜産家の性です。父・親之と共に、「さあ、どんどん子牛を仕入れるぞ」と張り切っていた矢先のことでした。あるショッキングなニュースが全国を駆け巡りました。
宮崎市で、家畜伝染病・口蹄疫が発生したのです。家畜伝染病のなかでは、最も伝染力が強いといわれる疫病。国内では92年ぶりの発生でした。
「なんでこのタイミングなんか!?」と光明は唖然としました。
発症した牛はもちろん、同じ畜舎で肥育されている家畜の全てが速やかに殺処分され、九州管内の家畜市場は休止に追い込まれました。牛の仕入れが難しい。ただそれだけではありません。伝染病の風評は、牛肉の販売にも打撃です。光明はまた頭を抱えてしまいした。
▼有限会社高森肉牛ファーム(安堂グループ)肥育センター 竣工時のパンフレット