安堂グループの歴史物語[第20話]
高森牛の歴史は明治初期に遡ります。その長い歴史のなか、山口県東部随一の牛肉生産を誇る安堂の名が登場するのは、意外にも戦後間もなく、昭和22年のことでした。
これは、現在の安堂グループに至る道のりを辿った歴史物語。そこには、激動の時代を生きた5つの世代、それぞれの苦難と歓喜の秘話がありました。
第20話
「家畜伝染病との闘い」
平成12年(2000)、家畜伝染病・口蹄疫の感染が宮崎市で確認されました。安堂光明はその情報を、感染を発見した当人によるホームページの記述で知りました。
「風邪のような症状。よだれを垂らしているのが気になったが…、まさか口蹄疫とは夢にも思わなかった」。(口蹄疫発生の発見者)
それもそのはず、日本では92年ぶりの発生でした。
1千頭規模へ
口蹄疫は最も伝染力が強い家畜伝染病として知られています。その畜産家で飼われていた肉牛は全て殺処分となり、九州管内での牛の取引も移動も禁止されました。500頭を肥育し、これから1千頭の肥育に乗り出そうとしている光明に、背筋が凍るような戦慄が走りました。そして、完成したばかりの高森肉牛ファーム肥育センターへの素牛の確保も暗礁に乗り上げてしまいました。
ところが、数か月後のことです。安全性が確認されて九州管内での取引が再開されると、出荷することができなかった子牛が一機に市場へあふれてきました。口蹄疫の風評被害も重なって、普段なら20万円も30万円もする素牛は半値に急落。それでも風評を恐れて買い手は少ない状況でした。
光明はこれをチャンスとばかり、素牛を熊本の市場で調達すると、牛舎を1千頭の牛で満たしたのでした。光明は獣医です。様々な処置と検査を終えて取引が解禁された牛の安全を確信していました。
「よし、安値で入れた牛を立派に育てれば、大きなビジネスになる」。光明や先代・親之は鼻息を荒くし、風評被害による減収を補って余りある利益を期待していました。そして順調に育った牛をそろそろ、という時でした。畜産業界にそれまでにない大きな衝撃が走ったのです。
同級生による記者会見
平成13年(2001)9月、光明はたまたまその発表をテレビのニュースで知りました。麻布獣医科大学の同級生が神妙な顔で記者会見に応じていました。同級生は当時、農林省の畜産課長でした。「どうしたんじゃろうか?」。光明は身を乗り出しました。
同級生が発表したのは、千葉県での牛海綿状脳症(うし かいめんじょう のうしょう/Bovine Spongiform Encephalopathy、略してBSE)の発生でした。
BSEは別名を狂牛病といいます。昭和61年(1986)にイギリスで発見されて以来、ヨーロッパを中心に恐れられていました。感染源は飼料に含まれていた肉骨粉(※1)の汚染とされ。ウイルスや細菌ではなく、プリオンと呼ばれるタンパク質の異常に因ります。感染すると、脳にスポンジ状の空洞ができ、痙攣、そして立てなくなる等の症状を示します。その治療法は未だ存在せず、感染した牛肉を食べることによって、人にも伝染することが報告されています。
「これはまた、大変なことになった」。
安堂畜産にとってそれは、最悪のタイミングでした。肥育センターで育った肉牛の出荷が目前に控えていました。口蹄疫のときのような風評被害が発生することは目に見えていました。テレビでは、その日を境にBSEに感染した牛の映像を繰り返し流していました。それを食べれば人にも似た症状が現れるという解説が、さらに恐怖を煽っていたのです。
あの牛はまだ生きていますか?
早速、小売店からの注文に影響が出始めました。が、かねてから強化していた直売店での販売チャネルが功を奏しました。「地元の肉で、しかも牧場直売なら安心」という地元消費者の意識にも助けられて、販売面での影響はいくらか緩和できそうでした。ところが、思わぬ事態が待ち構えていました。
一本の電話が、群馬の家畜商から入りました。
「先日、うちが出荷した乳牛のことですが…。群馬の前橋家畜市場で購入した牛なんですがね、その牛、まだ生きていますかね?」。
妙なことを聞く人だなと思いながら。
「いや、もう肉にしたようだが…」。
「ああ、そうですか」。電話の向こうで、ため息が聞こえました。
「実はその牛と同じ農家の牛が、つまり同居牛ですが、埼玉でBSEの診断を受けましてね。もし生きていたら引き取ろうかと思ったんですが…」。
その牛は、父・親之が群馬県の家畜商から仕入れた牛。家畜商からは、「この牛は群馬県生まれだから大丈夫」と言われたとか。勿論、BSEに感染した牛と同居していたことなど知る由もありません。と畜後の検査でも陰性だったことから、その肉は出荷を待つ冷蔵庫にありました。
光明は電話を切るなり、即座に判断しました。その肉を別の冷蔵庫へ隔離し、一切販売しないことにしたのです。BSEが発生した牛舎で飼われていた同居牛は全て、殺処分されるのが原則です。たとえ検査にパスしていたからと言って、それをもし販売していたら、安堂畜産は信用を大きく失うことになったでしょう。
渦中の群馬県
BSEは千葉県で発生した後、北海道、群馬、そして熊本にも飛び火しました。そのどれもが問題の肉骨粉入りの飼料を与えられていました。風評被害は全国に広がり、牛肉の消費は落ち込みましたが、とりわけBSEが発生した各地域の畜産業者にとっては、大きな打撃でした。普段なら30万円もする仔牛が2~3万円でも売れない。口蹄疫の時よりも厳しい現実を突きつけられていました。
同業者の誰もが牛の仕入れに慎重になり控えるなかで、光明は冷静にBSEの発生経路を分析していました。汚染された肉骨粉を含む特定の飼料(代用乳)を口にした牛が感染している事実。その飼料を与えた時期も特定できました。つまり、その問題の飼料を与えずに育てた若い牛なら感染の恐れはないことも…。全ては、獣医としての専門知識と分析力、そして情報を提供してくれる人的ネットワークのお陰です。
「こんな牛がおるが、仕入れてもええじゃろうか?」と同業者が心配して相談してくると、光明はその牛の月齢など聞いて、条件に合えば、「うん、大丈夫じゃけぇ買いんさい」と応えました。
光明自身、売り手が見つからないで困っていた群馬の畜産家から、何百頭もの牛を仕入れています。光明にとっては健康な牛が安価に手に入ります。畜産家にとっては、涙が出るほどうれしい取引です。その群馬の畜産家とはその後、現在も続く長い付き合いに発展しました。
乳牛の妊娠鑑定が将来役立つだろうと、光明は獣医を目指し資格を取得しました。ところが、酪農は時代と共に衰退し、獣医であることが直接役に立つことはなくなりました。しかし、獣医としての専門知識と科学的な視点は、様々な疫病が発生し食の安心・安全が叫ばれる現在にあって、他社にはない強みになっていたのです。
さらなる食の安全へ
BSEの国内での発生を契機に、国は異例の早さで対策を講じました。発生から1ヶ月以内にと畜後の全頭検査を開始。そして、トレーサビリティ制度(※2)の導入を発表しました。各畜産業者はそれぞれ独自にこの制度への対応を迫られました。その猶予は約1年半。待ったなしの状況でした。
牛には固有の番号を付した耳標を付けることで済みます。しかし、と畜から小売りのパッケージに至るまでの個体識別は、容易ではありません。部位に分かれ、商品によっては他の牛の肉と混ざって、パッケージが仕上がります。
安堂畜産では、パソコンが世に出回り始めた頃から、製造工程や原価管理のためにコンピューターを導入していました(第13話「衝動買いの功名」)。しかし、販売までの個体識別となると、さらなる投資を必要としました。1千万円を超える予算を投じて、加工工程でのラベルの自動読み取りの設備や、個体識別番号と商品を結びつけるソフトを開発して導入。制度のスタートに間に合わせました。
現在、日本における肉牛の全頭検査とトレーサビリティ制度の確立は、世界にも例のない厳格な疫病対策として、内外の評価を受けています。これの実現には、迅速な国の対応と共に、事業者それぞれの奮闘があったことを忘れてはいけません。
そして、さらなる食の安心・安全を追求するため、安堂畜産はISO9001-HACCP(ハサップ)認証への厳しい頂に挑むことになります。光明がその任を託したのは安堂卓也。安堂畜産に入社したばかりの息子でした。
▲個体識別番号の入った商品ラベル
▲直営店に掲げたポスターその1
長島茂雄の引退スピーチ「…永久に不滅です」にあやかった啓蒙ポスター。BSEの風評被害払拭のため、光明が考案した。
▲直営店に掲げたポスターその2
牧場から店頭までの「食の安全」への取り組みを具体的に表現したもの。
※1 肉骨粉(にくこっぷん)
牛・豚・鶏から食肉を除いたあとのくず肉、脳、脊髄、骨、内臓等を乾燥させて粉末にしたもの。
※2 牛肉トレーサビリティ制度
全ての牛の出生から店頭での販売までの個体識別を可能にする情報管理・提供の仕組み。牛の耳には個体識別番号が振られた耳標を装着され、それが肉になったときには、その部位ごと、そして小売りのパッケージごとに個体識別番号を表示。
事業者も消費者も、その番号を検索すれば、牛の生年月日や種別、と畜場とその年月日を知ることができる。