安堂グループの歴史物語[第29話]
高森牛の歴史は明治初期に遡ります。その長い歴史のなか、山口県東部随一の牛肉生産を誇る安堂の名が登場するのは、意外にも戦後間もなく、昭和22年のことでした。
これは、現在の安堂グループに至る道のりを辿った歴史物語。そこには、激動の時代を生きた5つの世代、それぞれの苦難と歓喜の秘話がありました。
第29話
「カビが生えた肉塊」
山口県原産、赤身肉が特徴の和牛・無角和種を絶滅の危機から救おうと、官民一体の活動が始まって、既に20年以上が過ぎていました。主に販売面で尽力し、肥育についても現場のノウハウを提供してきた安堂光明(安堂畜産・会長)でしたが、有名レストランやマスコミからの注目度は増しても、肝心の生産農家の数は増えていませんでした。
そんななか、静岡県の食肉業者から、「無角和牛の肉をぜひ見せて欲しい」という連絡が入りました。2016年、夏のことでした。
うさん臭い印象
その業者とは、創業100年を越える老舗「さの萬」。大正時代からの伝統を引き継ぎながらも、「進化する老舗」を標榜し、新商品の開発に熱心でした。ドライエイジングという肉の熟成法を本場・アメリカから導入し、それによるドライエイジングビーフ(乾燥熟成された牛肉)が好評を博していました。安堂卓也(安堂畜産・社長)も、その噂は聞いたことがありました。なんでも、特に赤身の肉が美味しくなる技法だとか…。「さの萬」が、赤身の肉が特徴の無角和種に目を付けるのも頷けました。
2016年8月、「さの萬」の社長・佐野佳治さんが、安堂畜産の加工場へ現れました。応対した卓也は、無角和種の枝肉を示して、その希少な品種や肉質について説明をしました。佐野社長は一通り説明を聞くと、今度は、ドライエイジングについて卓也に話し始めました。
「ドライエイジングは1℃ほどの低温で風を当てながら肉を熟成させる方法です。40日くらいすると赤身肉の表面の水分が飛んで、肉のうま味が凝縮されるんです。しかも、肉質は…」。
卓也は、佐野社長の熱心な説明を聞きながら、自分の気持ちがあまり乗らないのを感じていました。
佐野社長の話が一通り終わると、卓也は自分の思いを伝えました。
「熟成肉に興味はありますよ。でも、うちはずっと食の安全を追求して、肉の細菌数をいかに減らすかに努力してきました。HACCP(ハサップ、第21–22話)をとり、牛のタタキ(第25–26話)の製造認可も苦労してとりました。だから、菌数が逆に増えるような熟成についてはちょっと…、今までの真逆ですからね」。
卓也には、長期熟成させるというドライエイジングの手法は、真っ当ではない、うさん臭いやり方に思えたのです。
そして帰り際に佐野社長は、卓也をあるイベントに誘いました。
ノックダウン
「熊本地震のチャリティ企画で、熟成肉の試食会が行われます。ぜひ、参加されませんか」。
あれだけ熟成肉に否定的な話をした卓也でしたが、実のところ熟成肉を食べたことはありませんでした。どんな味がするのか気になった卓也は、東京で行われるそのイベントに参加することを快諾しました。
2016年9月9日、金曜日の夜、料理の専門学校・服部学園でそのイベントは開催されました。主催は日本ドライエイジングビーフ普及協会。参加費による収益金はその年の4月の熊本地震で被災した食肉業者へ寄付されるということでした。
テーブルには協会が技術認定をした9社による牛肉料理と、2社による豚肉料理が並んでいました。ビュッフェスタイルで味比べをしながら、熟成肉の魅力を知ってもらおうというイベントです。そのなかには、「さの萬」の牛肉もありました。
卓也は佐野社長を見つけると挨拶もほどほどに、勧められるまま熟成肉によるモモのローストビーフやステーキを口にしました。そして、一口、二口、かみしめながら、佐野社長にこう伝えたのです。
「えっ、なんですかこれは、すごく柔らかいですね。モモ肉でしょう? まるでヒレ肉じゃないですか!」。
佐野社長は「ほうらね」という顔をして笑っています。
卓也はいろいろな料理を試食しながら、その美味しさにも驚いていました。
確かにこれは味が濃い。今まで赤身の肉は、タタキなどの生で食べるか、昔ながらの干し肉にするくらいしか、美味しく食べる方法はなかった。でも、この方法なら、霜降り肉にも対抗できる。いや、霜降り肉に飽きた人たちや、本当に肉が好きな人たちなら、うま味が詰まったこっちを選ぶだろう。赤身肉の無角和牛にも、付加価値を付けることができる。
卓也はすかさず佐野社長に願い出ました。
「あの…、明日お時間があったら、ぜひ工場を見せてもらえませんか」。
その時すでに、卓也は熟成肉を作ることを心に決めていました。食の安心・安全はもちろんのことですが、理屈抜きの美味しさに出合って、たった一発でノックダウンされてしまったのです。
▲熊本震災チャリティ企画・ドライエイジングビーフ&ポークビュッフェ・パーティで試食する安堂卓也(2016年9月9日)
カビた肉
翌朝、卓也は「さの萬」の加工場を訪れました。そこには、ドライエイジングのための大きな熟成庫がありました。その設備投資は数千万円。熟成に適した温度と湿度を維持しながら、まんべんなく肉に風が当たる仕組みです。そこには、40日という長い時間をかけて熟成してゆく肉塊が並んでいました。
驚いたことに、肉塊の表面には薄い黄色のカビが生えていました。なかには全体がカビで覆われたものまであります。
「このカビがまた、いい仕事をするんですよ」と佐野社長。聞けば、微生物により牛肉のたんぱく質が分解され、うま味成分のアミノ酸になるのだと言います。菌数を減らすことばかり考えていた卓也には、衝撃でした。
ただし、良い仕事をするカビもあれば、悪さをする雑菌もあるといいます。良いカビをこうして繁殖させるには、一朝一夕ではできない苦労があったと、佐野社長は明かしました。
卓也は、熟成庫内の温度や湿度について細かく質問し、佐野社長は惜しげもなくそのノウハウを話してくれたのでした。
とにかくお金をかけずに…
「さの萬」から帰ってきた卓也は早速、熟成庫の準備に入りました。一般には数百から一千万円をかけて専用の熟成庫を用意するのですが、とてもそんな大金を掛けるわけにはいきません。卓也は、今ある設備を使って、肉の熟成を試してみることにしました。要するに、「さの萬」の熟成庫と同じ環境を作ればいいのです。
生まれて初めて熟成肉を食べてわずか2日後には、冷蔵庫の業者と打ち合わせをして、活用されていなかった冷蔵庫の清掃に取り掛かりました。そして、庫内の温度と湿度の計器を取り付けると、卓也のスマホでその数値と推移がリアルタイムで確認できるようにしました。
▲熟成庫の温度・湿度をスマホでモニタリング。
冷蔵庫は温度を設定すると、それが維持されるように思われますが、実は設定温度0℃の近くで、マイナス1℃から5℃の間を上下します。それに伴い湿度はさらに大きく変動します。70%から80%を維持すべきところ、60%から100%近くまで変わるのです。
その湿度変化を和らげるために、熟成庫の内側壁面は木質で覆われることが一般的でした。木の調湿効果を期待してのことです。卓也は早速、木の板を調達し、簀の子状に組み、冷蔵庫の壁に並べました。これにより湿度の変化は、いくらかは抑えられました。しかし、それでもまだ、湿度の急激な上昇は止められません。冷蔵庫の業者に聞いてみると、数十万円もする専用の除湿器が必要との答えでした。
「待てよ、要は湿度を下げればいいんだよな」。
卓也は近所のホームセンターへ行くと、家庭用の除湿器を2つ買ってきて、冷蔵庫に置いてみました。手元のモニターでタイミングを計り、除湿器のオンとオフを切り替えてみたところ、湿度はうまい具合に許容範囲に収まったのです。結果、数十万円を必要とする投資がたった10,000円で済みました。最後に業務用の扇風機2台を備えて、卓也は格安で温度、湿度、風の環境を揃えることに成功しました。
ところが、もう一つ、重要な要素が欠けていました。それは、佐野社長が一番苦労したと語っていたカビの存在です。肉の熟成にふさわしい良質のカビをどうしたら生やすことができるのか?
それから数か月後のこと、卓也をある幸運が救うことになります。