安堂グループの歴史物語[アナザーストーリー 4]
高森牛の歴史は明治初期に遡ります。その長い歴史のなか、山口県東部随一の牛肉生産を誇る安堂の名が登場するのは、意外にも戦後間もなく、昭和22年のことでした。
これは、現在の安堂グループに至る道のりを辿った歴史物語。そこには、激動の時代を生きた5つの世代、それぞれの苦難と歓喜の秘話がありました。
アナザーストーリー 4
「飲食業への挑戦」
周防肉処・高森亭(岩国市周東町)は連日、お客の絶えない繁盛店です。お肉そのものの品質に加えて、惜しみない牛肉のボリュームに驚かされます。そして何より、どこか懐かしい味わいに、普段は食の細いお年寄りもご飯がすすむと言います。
高森亭は2003年(平成15)に誕生しました。牧場から加工・販売までを一貫して手掛ける安堂グループの直営店として、その評判は当然のことなのかもしれません。しかし、現在のこの繁盛までの道のりは、決して平坦ではありませんでした。
飲食業への取組年表
年 | 出来事 | |
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1960 | S35 | |
1964 | S39 |
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1965 | S40 |
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1971 | S46 |
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1989 | H1 |
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2003 | H15 |
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「いろり山賊」とのご縁
安堂グループが飲食業へ進出するきっかけは、全国にその名の轟く名店「いろり山賊」の創業者・高橋太一氏との出会いに遡ります。(第4話「いろり山賊との出会い」)
1960年(昭和35)、広島市の居酒屋・的場大学を運営していた高橋氏が、突然、「牛肉を仕入れたい」と安堂商店(安堂畜産の前身)にやってきました。当時の安堂商店の初代店主・安堂寿は、広島で大繁盛していたその居酒屋との取引を開始。さらに高橋氏の要望により、牛肉の新ブランド「皇牛」を開発し、提供するようになりました。
▲いろり山賊の前身・的場大学(広島市)
その頃、安堂寿には、二人の息子がありました。兄の親之は安堂商店の二代目として、肉牛を肥育する仕組みを地域に導入する等により、堅実な畜産経営を目指していました。一方、弟の繁美は、精肉店経営に始まり、乳牛のあっせん業を興すなど、商機を機敏に捉えた商売を展開しています。(第3話「若き兄弟それぞれの奮闘」)
次男・繁美の挑戦
さて、時代は東京オリンピックに象徴される高度経済成長の真っただ中。繁美は乳牛の仕入れのために出向いた地で、ある光景を目の当たりにします。それは、整備が進む国道沿いに現れたドライブインが、大繁盛している様子でした。それを見て、乳牛のあっせん業に陰りを感じ始めていた繁美は地元でドライブインを開くことを思いついたのです。
その同じころ、やはり国道沿いでの飲食業に興味を持っている人物がいました。広島の繁華街で成功していた的場大学の高橋氏です。繁美の構想を聞いた高橋氏は、「いつまでも飽きのこない特徴のある店にするべきだ」と主張。店の企画指導を買って出たのでした。
そのとき高橋氏には、繁美の店を開発することにより、自分の企画が当たるのかどうかを試してみたいという思惑もあったようです。(第5話「ドライブインへの進出」)
こうして、東京オリンピックの翌1965年(昭和40)、「宿場・天野屋利兵衛」(周南市と防府市間の椿峠)が誕生しました。安堂家の山から民家10棟分の木材を調達し、資産のほぼ全てを投入し、安堂家を挙げての一世一代の大博打でした。
▲宿場・天野屋利兵衛
ふたを開けてみれば、この三角屋根の大きなドライブインはたちまち人気を博しました。立地する富海地区に縁のある忠臣蔵の登場人物にあやかった店名と物語性。外観にも違わぬ凝った内装。そして、「討ち入りそば」「肉めし」という名物料理の創作。それらは、後に「いろり山賊」を築く高橋氏の企画力の賜物でした。また、繁美は広い人脈を活かして、旅行会社と手を組み、連日、観光大型バスの来店を叶えたのでした。(第6話「討ち入りそばと肉めし」)
なお、天野屋利兵衛はその地で42年間営業を続け、2006年(平成18)に閉店しました。国道2号の拡幅工事に関連しての幕引き。国道の開通と拡幅という時代の流れのなか、沢山のドライバーに寛ぎと思い出を残したのでした。
さて、天野屋利兵衛の開業に遅れること6年後、高橋氏は「いろり山賊」を開業しています。天野屋利兵衛を企画した経験と自信が、山賊の成功につながったことは言うまでもありません。
山賊と安堂商店との関係は、単なる精肉の取引にとどまりませんでした。天野屋利兵衛での協力関係は勿論、山賊が立地する土地の取得にも二代目・親之が協力するなど、まるで親戚のような付き合いになり、その関係は現在も続いています。
次男・政明の挑戦
歴史は繰り返すと言います。天野屋利兵衛の開業から20年以上の時を経て、今度は三代目・光明の弟・政明がレストランを開業することになったのです。
安堂政明は、光明の4歳下です。大学を卒業後、父・親之によって、九州で多店舗展開していた食品スーパー・ユニードに就職しました。鮮魚と精肉の売場を経験した後、やはり父の手配により、下松市のスーパーの総菜売場を運営するようになりました。
父・親之にはある考えがありました。兄弟が同じ業種の仕事をすると、いつか争うようなことになるのではないか。無用なトラブルを避けるため、わざわざ親之は兄とは違う業種への道を歩ませたのです。
スーパーの総菜売場は当初、活気があり、政明は忙しい日々を送っていました。しかし、大型店が地域に進出すると、厳しい局面を迎えました。そんな時、政明は父にこう伝えます。
「レストランをやりたい」。
それまで父が敷いたレールの上を歩いてきた政明にとって、初めての自己主張でした。
1989年(平成元)、政明によってファミリーレストラン・スパーブ(Superb)が開業しました。その店名は「他を圧倒するほど、素晴らしい」という意味で、政明本人が命名しました。場所は岩国市通津。数か月後に開業する食品スーパー・マミー(現・マックスバリュー)と同じ敷地という好立地。メニューの主役はステーキでした。
▲ファミリーレストラン・スパーブ(岩国市通津)
実は店舗工事が進むなか、兄の光明はある不安を感じていました。
「その立地でステーキとは…。高級過ぎて、お客が来ないかもしれない」。
このことを弟には伝えたのですが、既に店内には、ステーキを焼く様子をお客に見せるための設備が整っていました。
光明の心配は的中しました。物珍しさもあってオープン当初こそ客足は順調でしたが、やがて陰りが見え始めました。政明もステーキがメインでは難しいことに気付くと、急遽、焼き肉のコーナーを新設し、メニューの変更を繰り返して現在に至ります。
開業から30余年、スパーブは地域に愛されるレストランとして現在も営業を続けています。
高森亭の誕生
スパーブが開業して13年が経った頃、光明に当時の周東町(現・岩国市)町長からある要望が伝えられました。
「町内には肉を食べられる店がない。ぜひ、作ってくれませんか」。
たまたま、周東町の元郵便局舎を入手し、使い道を考えていた光明は、そこで飲食店を開業することにしました。それが現在の周防肉処・高森亭です。
▲周防肉処・高森亭
どのようなメニューにしようかと思案するなか、光明は通称「伊万里ステーキ街道」(佐賀県伊万里市)を視察に訪れ、食事をして、「こんなお店にできたら」と思ったのです。
弟が開業するとき、「ステーキは高級過ぎて地域に合わない」と忠告した光明だったのですが、厚切りのリブロースステーキの味わいを、ぜひ地域の人たちに知って欲しいという気持ちが勝りました。しかし、やはり客足は遠のき始めます。そこで光明はメニューに変更を加えることにしました。
その時、加わったメニューに、現在人気の「あみ焼き」があります。それは光明が子どもの頃から親しんだお袋の味です。どこか懐かしい味わい。赤身の肉に甘辛い醤油のタレがからみ、お年寄りにも「食がすすむ」とたちまち人気になったのでした。
▲あみ焼き定食
地域振興を担う店
「いろり山賊」の初代・高橋太一氏との出会いに始まり、天野屋利兵衛、スパーブ、そして高森亭へと、安堂グループの飲食業は発展してきました。そして各店には、それぞれ異なる目的があったことに気付きます。
天野屋利兵衛とスパーブは共に、各世代の次男による人生の大勝負でした。親からの支援を受けながらも、「この店で食べていく」という気概が込められています。この二人による挑戦と経験が、現在の高森亭に繋がっています。
高森亭には先行した二つの店とは異なる目的が、開業の当初からありました。それは「地域特産の牛肉を楽しんでいただく」という、いわば地域振興のための店舗です。高森亭では、安堂グループにより肥育され加工された牛肉を使用し、山口県産のお米を使うなど、文字通りの地産地消が実現されています。そして、「ああ、懐かしい」と思わず言葉が出て来るような、そんな地域の食文化を伝承することも、高森亭の役割と言えます。
そしてもう一つ、高森亭は安堂グループの商品開発に重要な役割を果たしています。
ドライエイジングによる熟成肉の開発の際には、高森亭に関係者を集めて、熟成肉の試食会を実施。集まった意見により、改良を重ねました。また、牛肉には家庭料理に使われて来なかった部位がまだまだ沢山あります。高森亭では、それらの美味しい料理法や食べ方を考案し、商品化を実現してきました。高森亭は安堂グループにとって、商品開発の現場であり、アンテナショップでもあるのです。
「故きを温ねて新しきを知る」。
高森亭は高森地区の古き伝統を今日に伝えながら、次代の食文化を創造しています。